タイトルこそ有名だけれど、実際に読んだことのない文学作品はたくさんあると思います。私にとってこの作品はそのクチのひとつで、なんとなく漫画版を読んだのが初めてのことでした。
(件の漫画版はこちらです)
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今回の記事は、結果として私自身に大きな影響を与えることになる、そんな作品である太宰治の『人間失格』について記していきます。
ちょっと長めなので気になるところだけ読んでいただいても構いません。
概要
物語の大半(はしがきとあとがき以外)は大庭葉蔵という人物の手記によって構成される。一人称は「自分」であり、はしがきやあとがきにおける「私」とは区別がなされている。
手記は三部構成になっているので、第一の手記から記していくこととする。
第一の手記
「恥の多い人生を送ってきました」
という一節から物語は始まる。第一の手記は葉蔵の少年時代を描いたもので、比較的裕福で、世間一般には「仕合わせ」だと云われるような家庭で育ったことがわかる。しかし少年は自らが幸福なのかわからなかった。むしろ「君は仕合わせ者だ」と云ってくる隣人の方が幸福なのかもしれないと考えたり、考えをこじらせて自分一人が狂っているのではないかと考えたりするようになる。
次第に少年は人間に対する最後の求愛として、仮面を被り道化を演じるようになる。
第二の手記
中学校に入学した葉蔵少年。ある友人に道化が見破られそうになって恐怖心を抱く。
その後旧制高校に進学すると、人間への恐怖から目をそらすべく、悪友堀木に紹介された酒やタバコ、女や左翼思想などにハマり始める。「自分」にとってこれらはひとときの癒しとなった。
結局「自分」は人間社会とのしがらみを解消しようと人妻と心中未遂事件を起こしたものの、「自分」は生き残り、相手の女性は死んでしまった。
このことが原因で「自分」は自殺幇助罪に問われるが、結果的に起訴猶予となり、父親と親交のあったヒラメという男が身元引受人となって釈放される。
第三の手記(一)
罪に問われたことで高校を放校になった青年葉蔵。ヒラメのもとで暮らすも、将来について問い詰められて家出する。
堀木とのやり取りを経て世間への警戒心は薄らいだものの、それをいいことにまたもや女遊びに手を染める。そのうち深酒を咎めるヨシ子という18の娘に惚れ込み、しばらくして彼女と結婚することでささやかな喜びを得る。
第三の手記(二)
二階で堀木と対義語について語り合っている間に、一階でヨシ子は出入りの商人に犯されてしまう。底知れぬ恐怖と絶望に襲われた「自分」は酒を浴びるように飲み、家でたまたま見つけた睡眠薬を用いて突発的に自殺を図る。
幸い助かったものの、浴びるように酒を飲む習慣は変わらず、とうとう喀血してしまう。薬屋に駆け込みモルヒネを売ってもらうと止められなくなり、気が付くとモルヒネ中毒になってしまった。未亡人である薬屋の奥さんと関係をもつことで勘定をどうにかごまかしてはいたが、やがて罪悪感に耐えられなくなり、実家に金の無心の手紙を送る。
やがてヒラメと堀木が「自分」を迎えにやってきた。二人とも今までに見たことのないような慈悲にあふれた表情をしているように「自分」の目には映ったのだろう。無抵抗のまま自動車に乗せられ、田舎の病院へと連れていかれた。
サナトリウムだと思っていたその場所は精神病院であった。他人から狂人・廃人のレッテルを貼られたことを自覚した「自分」は、もはや完全に人間ではなくなったと悟る。
その後数ヶ月して実家から使いがよこされ、東京から離れて田舎で療養生活を送るよう指示される。
ぼろぼろの家に年老いた女中と二人、幸福も不幸もなく、ただ時間だけが過ぎていくことだけが、阿鼻叫喚で生きてきた人生において唯一の真理だと思う青年・葉蔵であった。
コメント
この作品を読むことで、縛られていた人が解放され、欲望に従って生きるとどうなるのか一例が見られた気がします。残念なことに「人間」らしく生きるということは禁欲的でいることによって成立するものだと目の前に突き付けられたような気分です。
もっとも、名家に生まれ、美男子であろう葉蔵が退廃的な生活を送るのだから物語になるのであって、私のような人間がデカダンな生き方をしたところで警察にお縄になるのが関の山なのですが。
以下、いくつかにテーマを絞って思うところを述べています。
仮面を被って生きること
周囲の顔色を窺い、仮面を被って生きるというスタイルは、それに心当たりがある私に突き刺さりました。なんとか仮面を被らずに生きていたいと思うのですが、現代の日本社会では仮面を被らずに生きることは非常に困難です。
そのように思ったことから読後に初めて抱いた感情は一種の諦念でした。
さまざまな女性との関係
この葉蔵という男は何人もの女性と様々な関係を築きます。果たしてそこにあったのは愛なのか、それとも情なのか、それともその他の感情か。そもそも愛とは何か。などなど。
普段何気なく口にしている言葉について本質を理解しようと努めましたが、今のところ特に得られたものはありません。
「ヒラメ」に引き取られてからの生活
酒も飲めないし、煙草も吸えないし、ただ、朝から晩まで二階の三畳のこたつにもぐって、古雑誌なんか読んで阿呆同然のくらしをしている自分には、自殺の気力さえ失われていました。
第三の手記(一)より引用
なるほど、これによると実家に戻ってからの私も「阿呆同然」な気がします。
酒もタバコもやらず、普段やることは本を読むか記事を書くかのほぼ二択という、まるで呆けた暮らしをしているので既にカレンダー感覚は消滅しました。
「世間」とは
(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
第三の手記(一)より引用
「自分」はこれまで「世間」というのは一般にいわれるとおり「社会」のことを指すと思い込んでいましたが、「世間が許さないぞ」という発言について、「世間」というのは全世界だとかそんな規模ではなく、所詮その発言者とその周囲ぐらいの者たちぐらいのものだと気づきます。
これは非常におもしろい考え方だと感じました。なるほど、たしかに言われてみればその通りに思えてきます。
個人主義的な傾向にある現代日本の都市部においては、「周囲のことなど知らん、俺は俺だ」といったようにこのような考え方は支持されそうです。
しかし私の実家のある片田舎では村社会のシステムが根強いため「周囲=世界」と考えられるのでしょうか。やはり受け入れられ難い雰囲気があります。
現に祖母からは「文学者だの哲学者だの、そんなものになっては近所の人から気違いになったと後ろ指を差されかねないからやめてくれ」と懇願される始末です。まあ既に片足を突っ込んでいるわけではありますが。
最後に
この作品を読んで私が思ったことは枚挙に暇がないのでここらでやめておきます。内容を膨らせられれば今後小出しにしていきたいと思っていますので、よろしければお付き合いください。
普段の記事の倍以上の分量になってしまいましたが、ここまで辛抱強く読んでくださった方には感謝いたします。